東京外国語大学欧米第一課程ドイツ語専攻
「コンピューターとドイツ語学習研究」(ヨーロッパ言語研究Ⅰ演習)
担当: 境 一三


文法訳読法に対して考えうる批判

4月23日の課題「文法訳読法に対して考えうる批判を書いてください」に対して皆さんから興味深いメールが寄せられました。5月7日の授業で皆さんから公開してもかまわないという承諾をいただきましたので,ここに掲示します。

最初は一部を選んで公表しようかと思ったのですが,どれもそれなりに重要な論点を含んでいますので,全部を掲載しました。

境のコメントは授業で述べたとおりです。これをご覧になって,もう一度この問題を考えてくれると良いと思います。

(5月9日掲示)


・ 実際に話すことができない、実用性がない。だからドイツに行った時など今までの勉強は何だったのか?と疑問に感じると思う。そうすると勉強の能率は落ちるかもしれない。

・ 聞くという能力が育たない。聞くことは話すこととも関連してくる。聞けないと話せないと思う。

・ ドイツ語を理解する際、一度日本語に直さないと意味を理解できない。そうするととても時間がかかるのが問題。

・ 楽しさを見出せずつまらないと思う生徒も少なくはない。教科書の勉強よりもオーディオ機器や実物を使ったほうが生徒は飽き難いと思われる。

・ 硬い表現や単語しか出てこなくて親しみにくい。そうすると勉強する意欲が減る生徒もいる。

 


紙面上ではハイレベルな文章を取り扱えても、会話ができない。これが文法訳読法の弱点だ。今まで我々が受けてきた文法訳読法による外国語教育では、確かに文法をしっかり学習するため、外国語の基礎の部分が固められる。そのため入試問題のような難解な文章は、ある程度、解けてしまう。しかし一方で、文法をしっかり把握しているために、会話の際には文法上誤っては通じないと感じてしまい、なかなか言葉を出せずに会話がスムーズにならず途切れ途切れになってしまう。また、日常会話のような文法上くだけた表現も、文法訳読法ではあまり扱わないため、喋れなかったり、或いは聞き取ることができなかったりする。

こうした文法訳読法の問題点を解消するには、外国語教育の中にもっと会話練習を取り入れ、外国語を「使える言葉」にしなければならない。それと同時にリスニング訓練を行って耳を外国語に慣れさせ、会話を正確に把握できる力も養わなければならない。

このように会話の中で「生きた言葉」に馴染み、「使える言葉」を口にしていくことによって、文法訳読法の不足している部分を補えるのではないだろうか。

 


文法中心の外国語教育の一番の問題点は、実用的ではないところにあると思います。つまり、文法の正確さばかりが気になってしまい、本当に伝えたいことを伝えられない、ということが起こってしまうということです。

卑近な例をあげると、私自身、ドイツ語で話すときに、形容詞及び冠詞の格変化や、動詞の人称変化が気になって、伝えたいことを諦めてしまうことがありました。

しかしながら、コミュニケーションの上で一番大事なのは、文法どおり正確に話すことではなくて、伝えたいことを自分の力で伝えることだと思います。文法は間違っていても、気持ちがあれば単語を並べれば伝わります。けれども逆に、文法が正しくても、中身がなければコミュニケーションは成り立ちません。

私たちは外国語教育の中で、「伝えたい何か」を見つけることが最重要課題なのだと思います。

 


文法訳読法では母語で文法の説明がなされ、「読み」「書き」「翻訳」に力が入れられる。そうすると、どうしても「聴く」「話す」がおろそかになってしまい、言語の4技能をバランスよく学習することができない。そしてコミュニケーション能力は育ちにくい。また、この方法においては、目標言語の単語すべてに母語の訳語をあてるが、これには問題があると思う。なぜなら異なる言語は異なる文化のものであり、ある単語に必ずしも適当な訳語がつけられるとは限らないからである。だから単語を訳語で覚えてしまうと、その微妙な意味の違いを理解することはできない。これらのことが、私が考える文法訳読法の問題点である。

 


 その外国語を実際に話す、訓練がないので聞いたり話したりする能力が伸ばされないという側面がまず考えられます。

  また、これは英語の購読の授業をとっていて気づいたことですが、英語の文章を読む際に常にその日本語訳を考えるので読むのが遅くなってしまうということです。英語を英語として理解する場合と比べて、日本語に訳し直す分だけ読むのが遅くなってしまうのです。

 当該の外国語で考えるようにはならず、常に母語をベースに考えてしまい、二つの言語間での翻訳の作業を常に行うことになります。その外国語で考えることによって得られるであろう新たな思考パターンを獲得することができません。

 


文法訳読法(GÜM)が最も支配的であった時代には、外国語学習の目的は外国語の理解、翻訳、理論的な考え方による知的訓練であり、文法規則や単語の意味の暗記に重点をおく文法訳読法はそれらを満たすに充分であった。ラテン語などの古代語のように、現在ではコミュニケーションの媒体として使用されていない言語、従ってその利用目的が読み書きだけに限られているような言語の習得に関しては、文法訳読法は実に有効である。

しかしながら外国語を聞く、話すなどしてリアルタイムのコミュニケーションに利用するならば、学習の上で大変重要な「音」の要素が文法訳読法には欠けている。外国語で発せられた言葉の内容を即座に捉え、とっさに返答が出なければコミュニケーションは成り立たない。そこでは音声的な言語の認識力が必要であり、机上のみで行う学習法にはカバーできない分野である。

さらに、音声的な認識力と関わってくるものだが、その外国語の発声法を身につけることも、コミュニケーションに欠かすことはできない。正しい発声法を身につけるために、外国語で発せられた音声をよく聞き、模倣することが必要である。特に英語におけるRとLの発音や、アジア言語における声調の区別など、日本人にとっては聞き分けるにも発声するにも訓練が必要である。文法訳読法においては、それらの区別は文字によって表記されるのみであり、文字に頼りがちで不正確な発声法に陥りやすい。

 したがって、文法訳読法にはこれらの音声的な要素の学習が欠けているため、コミュニケーションの言語としての外国語学習には不向きである。

しかしながら、外国語学習にはその目的に沿った方法がとられるべきである。コミュニケーションを目的とした外国語の学習には、外国語で話す・聞くなどの方法をとるとするならば、その一方で、外国語の読み書き翻訳を目的とした学習には、文法・単語中心の文法訳読法も選択肢の一つである。したがって、今回の課題は「文法訳読法批判」ということだが、必ずしも文法訳読法が不完全で、批判すべきものとは言いきれないのではないかと私は考える。

 


 読んで書くことが重視され、話すことが軽視されているので、書物を読んだり、手紙でコミュニケーションをとるぶんにはいいが、実際あって話した場合そのようなトレーニングが不足しているとスムーズにできない。確かに文法ができ、語彙もあり、文章が書けるならば、しゃべることはできるかもしれないが、発音に疑問点がつき、自分の意図が完全に伝わっているかがあやしい。又、コミュニケーションは一方的に話すものではなく互いに話して成り立つものなので相手の言っていることが理解できないかもしれない。

 ラテン語などに関しては更に人を絞る(学・階層で限られる)ので、読み書きを重視ししすぎると、実用性を重視する庶民には受け入れられず、よけい階級間に隔たりが広がると考えられる。

 


デメリットは言うまでもなく、「外国語を喋れるようになれない」ということでしょう。これに関しては、授業で実際に喋らないし、喋れるようになるために必要な日常会話、発音等に力を入れていないので、当たり前ですね。矢張り、経験上、外国語習得のためには耳からが一番効果的かと思われます。間違ったカタカナ発音から、正しい発音に矯正するのは大変ですし。実際僕は、大学に入ってから英語の発音の矯正を始めたんですけど、今でも非常に苦労しています。

メリットとして予想されるのは、「読み書きができるようになる」ということですけど、実際の所、社会人になっても、中高大約10年の外国語教育を受けているにも関わらず、全く読み書きが身についていない、というのが大半のような気がします。他に、外国語教育において期待できるメリットというのも思いつきません。

では、何故我々はこのような意味のない方法を、外国語教育の中心に据えているのでしょう?

原因は「受験戦争」です。

目的が、「外国語習得」というところから、「良い学校に入る」ということにすり替わってしまっているのでは、受験で会話が必要ない以上、会話は二の次三の次になってしまいます。受験で会話試験を取り入れることで確かに解消はできますが、会話試験を取り入れるということ自体が不可能ですし。このような社会構造を変えないで、教育法だけを変えようとしても、恐らくは、うまくいかないのではないでしょうか?「目的意識を持った一部の生徒」には、効果的かもしれませんけど。

 


・Speaking能力が伸びない。

・会話ができないので生きたコミュニケーションができない。

・書き言葉を対象にしているので、話し言葉が使えず、会話にならない。

などという意見があると思う。

特に自分では、Speaking能力の問題を真っ先に考えてしまった。しかしながら、文法訳読法が、Speaking能力の向上に全く関与しないのか、と、ふと疑問に思ったので、あえて、その反論を考えてみたい。

4つの技能(Reading/Wirting/Listening/Speaking)ごとに能力を伸ばすことを考えると、Reading/Writingに関して、文法訳読法は有効な手段であることは間違いない。

また、Listeningに関しても、ヨーロッパにおける文法訳読法であれば、日本のいわゆる「ヒアリング」とは比べ物にならないほどのトレーニングにはなっていると思われる。

ただし、Speakingに関しては、「事実に即した会話」をすることはない訳であり、文法訳読法のみでSpeakingの能力が高まるとは、思えない。

しかしながら、Listeningで発音された言語のInputはされる訳であり、文法的な裏付けを知識として持ち、また、文、もしくは文章を作る能力も鍛えられている。

上記の4技能は、一見、個別のものに見えて、実際はかなり深くお互いにつながりあっている。逆を返せば、Reading/Writing/Listeningの3技能を高めることにより、Speakingの能力も相乗効果を起こすことはないのだろうか。文法訳読法も、Listeningを加えることを前提とすれば、決してSpeakingの能力向上を妨げるものではない、と結論付けてみたい。

以下、精神論になってしまい、あまり論理的ではないが、

Speakingに関して、個人的に考えることを。

自分でドイツ語を勉強してるが、Speakingの能力が飛躍的に伸びたのは、ドイツで生活して、「ドイツ語を話すことに度胸がついた」ことが最大の要因だった。

日本人が外国語を勉強しても、「Speaking」が一番の悩みだと言われているが、日本は特に、外国語に接する機会が格段に少なく、日本にいる限り、外国語を話す機会がほとんどない。外国語と聞いただけで、敬遠したがる人がほとんどだ。

つまり、外国語及び外国人と接することが「あたりまえ」になり、(たとえばヨーロッパなどは典型的だと思う)外国人/外国語アレルギーを克服して、度胸、あるいは、外国語を話す慣れを身につけることができれば、Speakingの能力を伸ばすことは、難しいことではないと思う。

 


 私自身も、中学、高校と文法訳読法で英語の教育を受けてきましたが、運用能力に関して言えば、ほとんど身につかなかったと感じています。欠点として考えられること;・必ず英文を日本語に置き換えないと理解できない。

・読解に時間がかかりすぎ、実用的な読み方ができない。

・多量の英語嫌いを生み出した。  

また、最大の欠点は、コミュニケーションに重点がおかれていないので運用能力が伸びないこと。 だと思いました。

 


 外国語を学習する目的は「目標言語で書かれた文学作品が読めるようになること」と考えられ、文法や単語の暗記などに重点をおかれていた「文法翻訳法」では、その言語を実際話すという実用面は考慮されず、またその言語圏のもつ文化を学ぶということも重視されていない。そのため、その目標言語を母語とする人とコミュニケーションをとる場合、どこかでなんらかの支障が起こるのではないだろうか。

 「文法翻訳法」はたしかに母語能力を上げるという知的訓練にはなるかもしれないが、真に外国語能力を上げることを考えれば、目標言語圏の文化(生活習慣、歴史、政治的背景なども含め)を学ぶことを重要視して、そのうえで実用的に目標言語を運用できる訓練を行う必要があるのではないかと思う。

 


このプリントの2-8までの内容を要約すると言語の学び方にはいくつかの段階があるということがわかる。

文法→その習った文法を使った作文→「読む」、「書く」、「翻訳」のどれか(これはそのときの教える側のプログラムによって順番が代わってくる。)

このプリントのセクション2.8.6に、「言語習得の目的は、文法を理解すること、習っている言語と自分の母国語の相互間の自由な翻訳ができるようになること、ある程度の語彙を持つこと、によって達成される」とある。全体を読んでみて、この一文がまとめだといえるであろう。

しかし、僕は4/16に授業で習った言語習得の4要素である「読、聴、書、話」の中の「話」、「聴」が全くない、ということに気がついた。つまり、この言語習得方法でいくら好成績を残したとしても、ドイツ語でいうところの"Ueberstzer"である翻訳家にはなれるが、 "Dolmetscher"である通訳にはなれないのである。今プリントの冒頭に、外国語習得は「昔の、もう使われていない言葉」であるラテン語を学ぶことから始まったとあるが、確かに話されていない、読み書きだけに使われる言葉を学ぶ際にこの方法は有効であると思われる。しかし、これは今も使われている言葉(英語、ドイツ語など)を学ぶ際には不十分である。

ただ、不十分であって無効ではない。この方法は僕の経験した日本の言語習得(この場合は英語)と同じである。つまり、話されていて、読み書きもされている言語を身につけるためには、まずこの方法で全くの無の状態からその言語の基礎を作り、そのあとになるべくその言語を喋り、聞く環境に身をおく必要があると思う。

 


このプリントには概して、文学的な言語習得についてのみ書かれているが、果たしてそれでいいのだろうか。

ここでいう文学的言語習得とは、(2.8.3)にあるような「文学とは言語共同体の智力業績のしるしである」とか、翻訳を言語習得の柱とし、読み物を通して自己形成を計っていることなどのことである。

確かに1900年代当初は、外国とのつながりが今ほど密ではなかったために、人と人との対話コミュニケーションがそれほど重んじられなかったのかもしれない。しかし、グローバリズムが進む現在、対話コミュニケーションを抜きにはしては語れない。

これらを踏まえて考える言語学習の意義、方法はなんであろうか?それは、言語を習得して自己形成を計ることはもちろん、さらに言語をツールとして外国の人とコミュニケーションを交わし、異文化を知ることではないだろうか。まただとするならば、言語習得の方法には「書く・読む」以外に、「聞いて・話す」練習が不可欠だと思う。

  つまり私が言いたいのは、このプリントに述べているような文学的言語習得のみに重点を置くのではなく、オーラルの言語習得も必要であり、不可欠であるということだ。そしてボーダレスな今、その力は今まで以上に求められている。

 


文法を基とする教育では「読む」・「書く」はできても「聞く」と「話す」は習得できない。教会以外では殆ど使用されなくなったラテン語教育ならばそれでも構わないだろうが、現地の人とコミュニケーションを取るような実用的ではない。また文法は文を一つ一つ理解するには役立つが、全体を素早く把握する練習には向いていないと考えられる。

 


言葉というものは生きており、一概に規則に当てはめて練習することだけでは習得できない。単語一語一語を学んでいくより、どのような文として使われるか、”文”単位での学習が望まれる。流暢な外国語会話の習得に結びつきにくい。

 


教養を深る、また知的な訓練に重点が置かれたラテン語教育の延長として外国語教育は始められた。

母語がいわば世界の中心であると考えられ、外国語学習の目的も母語の知識や母国の文化に対する知的訓練であるとされていたのならば、外国語、外国の文化に対する考え方や評価は、母語、母国の文化に比較して低いものであったと考えられるのではないか。

また、知的、教養的な側面ばかりが重視されることは、実用的なコミュニケーションの手段としての語学という、もう一つの大切な側面が無視されすぎていたと考えられる。

各国の行き来が今ほど盛んではなかったと考えれば無理もないことかも知れないが、外国語教育が始められた当初は、エリートと呼ばれる人々にこそ他文化との触れ合いが欠けており、国際的な視野が欠けていたのだと思います。

 


文法翻訳法は、その名のとおり”翻訳(文法勉強)=外国語学習”という概念のもとで行われていたことから、当時の外国語教育実施初期段階ではそれなりに意味のある教育法だったことが予想できます。なぜならば、外国語それ自体がきっと当時まだそれ程受け入られていなくそれを習得する側、つまり人々にとっても外国語は全く新しい未知のものであったはずだからです。そういう際の、基礎的な語学勉強、自国語と外国語による翻訳は、色々な意味で、初心者にはとても向いていたのではないでしょうか。しかし、その勉強法を取り入れることによる外国語への認識の変化、普及、そして外交関係からくるそれの高まっていく需要から、より実際的なことも学ぶべきであるということが明らかになってきたのだと思います。それは現在の日本の外国語教育問題でも言える事で、例えば会話、コミュニケーションルール、その言語の使われている国の文化や人々のメンタリティ等、実践的な外国語学習も言語を学ぶこと以外に、加えていくべきであるということです。

 以上は私の全くの推測なのですが、書いてみました。それの加え、書きながら思ったことは当時問題であったことが日本では現在もまだ解決されていないということに私は自国の教育に対する不安を感じました。